2020.8.9

夕飯はどういう流れからだかベランダで食べようという事になり、猫の額ほどのベランダにスツールを置きトルティージャ、焼きおにぎり、スティックきゅうり、を並べてビール。この間子どもがガチャガチャで取った“すみっこぐらし”のキャンドルライトを置いたら何だかいい感じ。タイ土産で頂いたラベンダーの香りの蚊取り線香も焚く。なかなか日が暗くならず、「丸見えだよ〜」と子どもが言うも、食べているうちにあっという間に真っ暗になり、いい雰囲気。何故だか蚊もおらず、暑さもほどほどでいい気分。

2020.8.7

数日間【わからなさ】について考えている訳だが、考えてもみたら店での充実の日々はこの【わからなさ】があってこそ。誰が来るのかも、何が売れるのかも、自分の気分すらもわからない。話をしたお客様のことはもちろん“本当のところ”(って何?)“理解”など出来っこない。数ミリでもこちらと何かしら触れ合える部分があったらラッキー。コミュニケーション“能力”とか言って問われる昨今だけれどもそもそもコミュニケーションとは『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』(貴戸理恵「コミュ障の社会学」より)というわけだからいつだって欠けていて然るべきだという事実に安堵する。

2020.8.6

引き続き『わかりやすさの罪』を読みながら朝刊で東浩紀のインタビュー記事を読む。新型コロナでの『(欧州の哲学者が発した問題提起から)生き延びる命とは、社会とは』。“この世界的なリスクは国境を越えた連帯が生まれるチャンスという人もいるけれども、それへの対応は逆に国境で分断されている。(中略)【わからない】をベースに連帯するしかない。人々があたかも[自分には分かっている]かのような前提で互いの言動を攻撃しあう現象が、人も国家も孤立して、連帯が広がりにくい状況を生み出しているのではないか”という。ここでも【わからない】がキーポイントになっている。自分のことすらよくわからないのに、他人のことなんてわかるはずがない。すぐに分かったり理解したふりをしない態度こそが重要なのかもしれない。

2020.8.5

ずっと読みたかった武田砂鉄の『わかりやすさの罪』を読む。靄が晴れるような気分。あらゆる場面で、短時間且つ明瞭な説明ができる人をもてはやす様な風潮に一石を投げ、理由のあるもの、有効なものばかりを獲得するようになってしまった私たちを憂う。“人の心をそう簡単に理解してはいけない。そのまま放置することを覚えなければいけない。理解できないことが点在している状態に、寛容にならなければいけない。あまりに理解が混雑している。(中略)話の帰結のために言葉を簡単に用意しない。言葉は、そこから始めるためにある。終着を出発に切り替える作業は、理解を急がないことによって導かれるはずである”

2020.8.4

改善されて初めて知るストレスの大きさ。普段の何気ない動作にいちいち負荷がかかっていたのだなと分かる。店の棚を作ってもらったのだが、ハマった後のなんという爽快感。こんなにもストレスだったとは!更に扉まで付いて、スッキリ!もう一つはトイレットペーパーを替えること。替える手間と、芯がゴミになるのもストレスだったことが判明。大容量巻で解決。

2020.8.3

たまに店内での長居を詫びられる事があるのだけれど、むしろ一人でじっくりと居て下さるのは嬉しいしありがたいこと。それだけ見たり考えたり、想像したり、もしくは居心地が良いと感じてくれている証拠だとも思うから(分からないけど)。静かに見たいだけなのに、傍から私が話し掛けているかも知れず、そうだったら申し訳ない…。でも嬉しくてついつい…。

2020.8.2

本当に久しぶりに美術館へ。友人に聞いていてこの展示は見たいと思っていたのだが、想像以上にかなり刺激された、というか、(我が子を見ていても思ったが)私たち、ずっとこういう刺激を求めていたんだわー。休みでも生活必需品を買いに出るくらいのここ数ヶ月間だったから尚のこと。人の生み出すどうしようもないエネルギーや思いの丈、みたいなものはデジタルの画面からとは比べ物にならない事を身を持って知った。子どもは帰宅後もほんとに楽しかったね!楽しかったね!と何遍も繰り返し、カレンダーに漏れなく「さいこうな日!」と記入していた。

2020.8.1

なかなかお会い出来ずにご無沙汰していたお客様から「うちの娘たち(関東近郊在住)が、今の状況が落ち着いたら一番初めに行きたい店がこの店だって言ってます」と、今書いていても涙が出るような嬉しいお言葉を頂戴した8月の始まり。更に「それを直接伝えたくて、買い物に来ました」とか言って下さる…。こんな幸せ者でいいんでしょうか…。素晴らしすぎる夏本番になりそうです。