2020.8.16

また思い立ち、那珂川町にある水遊園に行こうとなる。混雑時を避け15:30頃までには着くようにしよう、なんて余裕を持って出発(15時前には余裕で着く予定)。この間も通ったばかりなのに、今回は行けどもいけども着かない。おかしいな、絶対これは違うよねというような山道を登り始め、子どもに「もう引き返した方がいいよ!」と促されUターン。この時点で既に15:30過ぎ。段々と焦ってきつつも、あんなに分かりやすい場所戻れば着くでしょ、と苛つきつつも言い聞かせて運転。助手席の我が子はiPodを取り出してYouTuberばりに動画を撮り始めた「いまぁ〜私たち実は道に迷っててぇ〜ほんとだったらとっくに着いてるはずなんですけどぉ〜」とかコメントしつつ車内外の様子を撮影。「いつもなら すぐ着くわけなんですけど、おかしいですよね(笑)」誰に向かって言ってんの!?でもまあ、そんな彼女に笑わせて貰いながら走行し、無事到着!一体なんだったんだ。でも、面白いもので、二人共そこまで行きたい訳でも無かった筈なのに“もしかしたら行けないかも”となると、途端にどうにかして行きたくなるという不思議。

2020.8.15

こんな中でもご来店頂くお客様が多く、久しぶりに店に立ち接客するのがホントに楽しくて仕方ない。こうして、さして変わらず店を開けることが出来るだけでも何たる幸せか、と終戦から75年の今日、そしてコロナ禍の今日この頃に於いてより一層ありがたいことと感じる。しかしながら、ちゃんと“戦争”に向き合ってこなかった自分に反省&焦燥。今年10歳になる子どもにキチンと伝えられないというのはいかがなものかという、もどかしさもあり、今から一緒に考えていこうと思う。手始めに漫画から入ろうかなぁ。

2020.8.14

本日まで店は休み。こんなにのんびりしたお盆、いいのだろうか…という気もしないでもないが、まぁいつまでこうして親と一緒に遊んでくれるか分からないし良しとしよう。16時過ぎ、思い立って板室へ。山の方は雨が降ったようで靄がかって幻想的な景色。赤トンボもむちゃくちゃ飛んでおり人もまばら。黒磯からたったの15分程度でこんな景色がみられるなんてなんという贅沢。

2020.8.13

塗りたての白い床が眩しい(ただし、強烈なシンナー臭)店内にて、什器移動の前に店内各所の修繕など。綺麗になるのは楽しいなぁ。こうしてたまには定休日を作ってメンテナンスしなければダメだなぁと痛感。と同時に我が身体もメンテナンスする必要性を常々感じており、我が家でもはや“帽子掛け”と化していたストレッチポールの埃を払う時がきた。「ダイエット」ではなく、「怪我しない為の運動」に変化した自分に感慨。

2020.8.12

連休二日目。子どもも外出してしまい、一人でのんびりの休日。今読みたい本が(友人に借りたものも含めると10冊以上あり、この上なく幸せ)盛り沢山で、ちょこちょこ読みしているので、どれも終わりまで行っていない(というか終わらせたくないからこんな読み方をしている気もしてきたが)。風が涼しくて心地良かったので、今日もベランダ日和、という訳でアイスコーヒー片手に読書三昧。時々毛抜き。独身時代に戻った様。あー自分って何一つ変わっていないんだなぁと思った日。そしてもしかすると、こういう日が近づいているのかもしれないと思うと、ちょっとした寂寥感。

2020.8.11

今日から店舗はお休み。業者さんに店内の床塗りをしてもらうため、朝から什器移動など。意外にもスピーディに終わり、早い時間に学童へ迎えに行く。猛烈な暑さのため川遊びしたい気分。その足で河畔公園へ行くも、泳いでいるファミリー、BBQのグループなど割と人も多く(皆考えることは同じ)、鳥の目キャンプ場の方へ行ってみる。こちらの河原はのんびりムードで、ここなら良いねと、早速昨日購入の簡易テントを広げ、ノンアルのハイボール(車なので)。さっきより上流のためもっと水が澄んで綺麗。浅瀬にまでたくさんの稚魚がみえる。帽子も日除けも持たずに来てしまったので、焼けた気もするが、思い立って5分足らずでこんな場所でのんびり出来るなんて幸せだなぁとしみじみ思う。夏休み気分を味わった。

2020.8.10

昨夜のベランダご飯に気を良くして、今度はベランダで寝たいと言い出した我が子。一人用テントでも見に行くかという事になり、仕事上がりにドンキホーテへ。アウトドアでササっと広げられそうな簡易テントを購入し、帰宅後そそくさとベランダに広げ、布団など持ち込んで準備万端でワクワクの子ども、と思ったのも束の間。天敵の白蛾がテント内に入ってきたからさあ大変、大騒ぎからのちょいナーバス。外側から髪の毛一本入れないようにぴっちり洗濯バサミで止めてくれとお願いされ、その通りにするも、今度はカメムシのカサカサという音がコワイと言い、数分後には狭くて足が痛い、床が硬くて眠れる気がしない段々とナーバスに拍車がかかり、結局「やっぱり部屋でねる〜」。

2020.8.9

夕飯はどういう流れからだかベランダで食べようという事になり、猫の額ほどのベランダにスツールを置きトルティージャ、焼きおにぎり、スティックきゅうり、を並べてビール。この間子どもがガチャガチャで取った“すみっこぐらし”のキャンドルライトを置いたら何だかいい感じ。タイ土産で頂いたラベンダーの香りの蚊取り線香も焚く。なかなか日が暗くならず、「丸見えだよ〜」と子どもが言うも、食べているうちにあっという間に真っ暗になり、いい雰囲気。何故だか蚊もおらず、暑さもほどほどでいい気分。

2020.8.7

数日間【わからなさ】について考えている訳だが、考えてもみたら店での充実の日々はこの【わからなさ】があってこそ。誰が来るのかも、何が売れるのかも、自分の気分すらもわからない。話をしたお客様のことはもちろん“本当のところ”(って何?)“理解”など出来っこない。数ミリでもこちらと何かしら触れ合える部分があったらラッキー。コミュニケーション“能力”とか言って問われる昨今だけれどもそもそもコミュニケーションとは『他者や場との関係によって変わってくるはずのもの』(貴戸理恵「コミュ障の社会学」より)というわけだからいつだって欠けていて然るべきだという事実に安堵する。

2020.8.6

引き続き『わかりやすさの罪』を読みながら朝刊で東浩紀のインタビュー記事を読む。新型コロナでの『(欧州の哲学者が発した問題提起から)生き延びる命とは、社会とは』。“この世界的なリスクは国境を越えた連帯が生まれるチャンスという人もいるけれども、それへの対応は逆に国境で分断されている。(中略)【わからない】をベースに連帯するしかない。人々があたかも[自分には分かっている]かのような前提で互いの言動を攻撃しあう現象が、人も国家も孤立して、連帯が広がりにくい状況を生み出しているのではないか”という。ここでも【わからない】がキーポイントになっている。自分のことすらよくわからないのに、他人のことなんてわかるはずがない。すぐに分かったり理解したふりをしない態度こそが重要なのかもしれない。